2006年度1学期後期「実践的知識・共有知・相互知識」    入江幸男

第14回講義 (July 19. 2006

 

§7 まとめと課題

0、あなたが次の問に答えられたら、この講義も到達目標を達成したことになります。

「実践的知識とはなにか」

「実践的知識に関する困難は何か」

「共有知とは何か」

「共有知に関する困難は何か」

 

1、共有知はどのようにして得られるのか。

個人の知は、通常は、観察によるか、推論によって得られる。では、もし共有知が存在すると仮定すると、それはどのようにして得られるのだろうか。

 

観察は、知覚に基づくので、個人的なものである。知覚は、個人のものだが、知覚の内容は、通常は、個人的なものではなくて、客観的な内容であると考えられている。たとえば、私が黒板をこぶしでたたくとき、それを多くの人が見

ることが出来る。そして、こぶしでたたいた音は、多くの人にとって同時に聞こえる。その音を聞いたとき、黒板をこぶしで叩いたことは、我々の共有知である。対象の色、味だけでなく、位置、形、大きさもまた、変化する。これらは主観的である。変わらないのは、対象間の位相的な関係である。

子供が「これは赤い」という言葉を習うとき、子供はそれを共有知として習うのである。大人とならんで、ある対象を知覚し、その対象の色を「赤い」と呼ぶことを習うのである。個人の観察による知は、共有知として学習されたものである。

 

推論は、他の知から出発する。共有知が別の共有知から推論によって得られることはあるのだろうか。個人が推論するのであれば、たとえ共有知を前提して推論するのであっても、その結論は個人の知である。推論の結論が共有知であるためには、我々が推論するのでなければならない。また我々が推論するためには、推論の前提となる知もまた我々の共有知でなければならない。では、我々が推論するということはありうるのだろうか。

推論が客観的な妥当性をもつとは、みんなそう推論するということである。つまり、妥当な推論であるならば、我々が推論するといってもよいのである。

たとえば、私的な知を前提にして、妥当な推論するとき、その推論も、われわれによる推論だということも出来るのである。ただし、そのときには、出発点が私的な知であるから、結論もまた私的な知である。

 子供が推論を学習するとき、最初は、共有知を前提として、そこから我々が推論し、そこから共有知を結論にするという仕方で、推論を習っただろう。

 

 共有知もまた、観察によるものか、推論によるものである。

 

2、知の基礎付けについて

 講義の最初に、知の基礎付けを疑ったときに、それでもなお確実そうに見える知として、つぎの3つを挙げた。

  @「pならばp」などの論理法則

  A「これは赤い」などの感覚の報告

  B「私は存在する」

 

上に見たように、@とAを、個人は、最初は共有知として学ぶ。Bについては、最初にどのように獲得するのだろうか。

 Bの確実性を、デカルトは、他者の存在を含めてあらゆることを疑った後でも、疑い得ないことしてして発見した。しかし、これが言語で表現されている以上、これは私的言語ではありえない。Bが確実であるためには、有意味でなければならず、有意味であるためには、私的でなく公共的な言語でなければならないだろう。Bもまた、共有知としてのみ、確実な知になるのかもしれない。

 

■注1■

「これは赤い」「pならばpである」「私は存在する」これらを疑うことをみとめるのならば、そのときには、これらの言葉の意味を理解しているかどうかを疑うべきかもしれない。これらの事実への疑いは、言語の意味への疑いと等根源的である。

これまでの認識論では、認識の根拠付けや発生を説明するときには、言語の習得や理解を前提してしまっており、言語の習得や理解を説明するときには、認識の根拠付けや発生を前提してしまっていることが、多かったように思われる。ウィトゲンシュタインは、このことに気づいて、両方を同時に考えようとしていたのかもしれない。

 

3、実践的知識の背景信念と3つの基礎的な知

 「コーヒーを入れよう」とおもって、台所にゆき、薬缶に水を入れて、ガスコンロにかけ火をつける。ポットをあらって、そこにドリッパーをのせ、紙をおってそこにおき、コーヒーの粉をそこに入れる。このようにしているときに、「何をしているの」と問われたならば、即座に「コーヒーを淹れています」と答えることが出来る。

この実践的知識「私はコーヒーを淹れています」は、その他の多くの信念を前提している。「私が手元に用意しているものが、コーヒー豆の粉である」を前提している。なぜなら、この信念が間違っているのならば、私はコーヒーを淹れることに失敗するだろうからである。ここで「それは何ですか」と問われたならば、私は即座に「コーヒー豆の粉です」と答えるだろう。そのとき、質問の「それ」が何を指示しているのかを理解するために、周りを観察するかもしれないが、その指示対象を理解したい後では、観察によらずに即座に「コーヒー豆の粉です」と答えるだろう。なぜなら、この状況ではそれがコーヒー豆の粉であることは、私の行為の中に組み込まれた信念だからである。このような行為の背景となっている信念を、ここで仮に「背景信念」と呼ぶことにしよう。

実践的知識の背景信念には、さまざまなものがある。行為を可能にするさまざまな対象についての信念は、「これは茶色い」「これはコーヒー豆だ」「これは薬缶だ」「これは水だ」「この水は熱い」など感覚や知覚についての信念である。ところで、行為には理由ないし目的があり、「なぜそうするのか」と問われたならば、即座に「なぜなら、・・・するためです」とその理由ないし目的を答えるだろう。その理由と行為は、実践的推論によって結びついている。したがって、推論についての信念もまた、通常の実践的知識の背景信念になっている。また、「私は・・・している」という形式の実践的信念は、常に「私は存在する」を背景信念にもっている。

 

4、「我々」の実践的知識の背景信念と共有知

 「君たちは何をしているの」と問われて、即座に「我々はサッカーしています」と答えるとき、これが我々についての記述ではなくて、我々の実践的知識だとしよう。このような実践的知識もまたさまざまな背景信念を持つ。

 例えば、「ここがサッカーグラウンドである」「あれはサッカーボールである」「あれがゴールポストである」「彼が我々のチームのキーパーである」「私はMDである」「彼が敵にFWである」「今日の試合には審判がいない」「オフサイドとは、・・・というルールである」「今のところ1:0で我々が勝っています」などである。

 これらの背景信念には、「私」の実践的知識の場合と同じように、感覚や知覚についての信念、論理法則についての信念があり、さらに「我々が存在する」という信念が含まれている。

 もし「我々はサッカーしています」が共有知であるならば、そのときには、この共有知が前提しているこれらの背景信念もまた、共有知(あるいは「共有信念」と呼ぶべきもの)である。

 

5、実践的知識は、観察によらない。観察にも推論にもよらないとすれば、それはどのようにして知られるのか。

「コーヒーを入れよう」とおもって、台所にゆき、薬缶に水を入れて、ガスコンロにかけ火をつける。ポットをあらって、そこにドリッパーをのせ、紙をおってそこにおき、コーヒーの粉をそこに入れる。このようにしているときに、何をしているのと問われたならば、即座に「コーヒーを入れています」と答えることが出来る。なぜだろうか。

 

(答え1)

なぜなら、私はコーヒーを入れようとして行為しているからである。意図的な行為は、例えば「コービーをいれよう」というような意図なしには成立しない。つまり、意図的な行為は、つねに言語化された意図を伴っているのである。それゆえに、「何をしているのか」と問われたときに、直ちに、「コーヒーを淹れようと意図している」あるいは「コーヒーを淹れている」と答えることが出来るのである。

  以前に述べたように、我々は、たとえば、「このチョークは何色ですか」と問われて「それは白です」と即座に答えることができる。これは観察による知であるが、なぜ即座に答えることが出来るのかといえば、その問いを理解するときに「このチョーク」が指示している対象を理解する必要があり、そのためにはそのチョークを見る必要があるためである。つまり、その問いを理解したときには、そのチョークを見ているのである。そのために答えるための観察の時間が余計に必要になるということがないのである。

これと同じで、「あなたは今何をしていますか」と問われたときに、その問いを理解するためには、「私が今していること」という語句の指示対象を知る必要があるのだとすると、問いを理解するときに、<私が今していること>への指示を行っており、それに答えるときに即座に答えることができるのである。

 

(答え2)逆に、即座に答えられないとすれば、我々はコーヒーを入れることが出来ないだろう。なぜなら、そのための沢山の作業をしているときに、それらの作業をコントロールすることが出来なくなるからである。

 

(答え3)問答論敵必然性を用いた説明(今後の課題)

 

6、「共有知」と「相互知識」の区別の提案

(以下に示す区別は、拙論「いかにして相互知識は可能か」での区別とは異なる。)

 

従来の共有知に関する議論は、(サールを除く?)多くの場合、知が共有されているといっても、それは諸個人が同じ内容の知をそれぞれ持っているということであった。つぎのような場合、

(1)aはpを知っている。

(2)bはpを知っている。

ときにpはaとbの「共通知識」である、と呼ぶことにすると、「pがaとbの共通知識である」がさらにaとbの共通知識になるという、階層化が何度も成立するということであって、一つの知を複数の人間が共有するということではなかった。しかし、このような説明では、認識論的独我論を乗り越えられない。もし認識論的独我論では不十分であるといえるならば(これの論証がまだ不十分である)、我々は、複数の人間が一つの認識主体になる、複数の人間蛾文字通り一つの知を共有するということを出発点にしなければならない(これの証明もまだ不十分である)。

ところで、このような意味での「共有知」を出発点にするとしても、しかし共通知識もまた他方で成立している。そして、ある知が「共有知識」であるということが、共有知になっている場合がある。そこで、そのような場合を「相互知識」と呼ぶことにして、「共有知」と区別すべきであろう。

 

「相互知識」を次のように定義することを、まず提案したい。

「pがaとbの相互知識である」とは、次の3条件を満たしている場合、その場合に限る。

(1)aがpを知っている。(この知は共有知ではなく、通常の知である)

(2)bがpを知っている。(この知は共有知ではなく、通常の知である)

(3) (1)(2)がaとbの共有知である。

 

例えば、aもbもそれぞれ、日曜の夜TVを見て、日本がクロアチアと引き分けたことを知っているとしよう。

  (1)aは、「日本がクロアチアと引き分けた」と知っている。

  (2)bは、「日本がクロアチアと引き分けた」と知っている。

月曜日に大学にやってきた二人は、次のようにその試合について話しあったとしよう。

a「昨日の試合を見た?」

b「見たよ。日本のFWはどうしてゴール前でパスばかりするんだろう。」

a「そうだね」

このとき、二人の間には、

  (3)(1)(2)がaとbの共有知である。

が成立している。上の定義によれば、このとき、「日本がクロアチアと引き分けた」という知がaとbの「相互知識」である。

 

7、「我々」の実践的知識と共有知

テーゼ「我々の実践的知識は共有知である」

我々の実践的知識は、相互知識ではない。「我々はサッカーをしている」は、相互知識ではない。なぜなら、それは即座に答えられるからである。相互知識ならば、私がそれを知っていることと他の人がそれを知っていることが共有知であるということから推論されることになる。

 

 

<<課題は沢山残っていますが、これで講義は終わりです。面白いレポートを楽しみしています。後期には、

実践的知識と共有知の概念をもちいて、ドイツ観念論の自由論を解釈する予定です。

それでは、楽しい夏休みをお過ごし下さい。>>